織田瑟々桜画展レポ

2009-04-06

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滋賀県東近江市川合寺町
八日市インターチェンジから車でしばらく走ると在るこの地に、江戸時代の女流画家・織田瑟々は生まれ、生涯の殆どをこの地で過ごしました。
少し遠出して行われた今回の勉強会の主な目的は、講演「織田瑟々と京都画壇」の聴講と、この画家の作品を集めた「桜画展」を見ること。
今回七回目となるこの桜画展は毎年、桜のこの時期に、瑟々のお墓のある西蓮寺と町の人々の企画運営で成され、集められた瑟々の作品はお寺の境内に飾られるのです。
引率して下さった日本画家の先生方による事前のレクチャーでは、絵画史や絵の見方といった内容ではなく、先生方がその土地に生活しながらその土地の人々と共生し、時に支えられながら描き続けてきた中で生まれた知恵やエピソードといった生きた内容であり、その時に、その土地の人々との瑟々との関わり合いの様子を生で感じて欲しいと具体的に伝えられていました。

織田瑟々。昨年2008年四月に名古屋城で比較的大規模に行われた桜を集めた展覧会に瑟々の桜画も多く出品されるなど、瑟々の名前は年々知名度を上げている、とのことではありましたが、日本画を学び日本美術史にも興味を持つ我ら一行全員が初めて聞く名前の画家です。
前日、学芸員の方にもご協力頂き滋賀県立図書館で瑟々の資料を調べましたが、私の力不足で美術の方面よりは見つけることができず。最終的に地元の文献、「八日市史 第三巻 近世」と「近江神崎郡志稿 下巻」に瑟々の文書を見つけることができました。
以下は「近江神崎郡志稿」中の“第十編・人物志”に在る瑟々の略伝です。
「織田瑟々は女流畫家で御園川川合寺の人、安永八年に生れ津田貞秀の長女で、通稱を政江と呼んだ。瑟々が織田氏を名乗ったはいつ頃よりか判らぬが、貞秀は此地方の地頭織田主計の一族で祖父敬三郎長經の時、江戸より此地に移住し、津田と稱してゐた。瑟々は彦根藩氏石居内匠信章を夫に迎えて、貞兔を生んだが、文化十年三十五歳の時夫を喪ひ寡住した。若きより櫻花を愛し、京都なる三熊露香の門に入り、其を學んで奥妙に入った。露香は介堂の妹にて、介堂は櫻花に新規軸を出し、妙境に達した人である。それで女史は其衣鉢を搏へ、艶態柔情眞にてある。其款識に織田氏女貞兔母とあるのが多い。こは寡居以來の作で、女史の謙譲から我が名を表さなかったといはれている。天保三年七月9日五十四歳で没し、西蓮寺に葬り、法名を天譽名櫻とした。今もその墓側にある櫻は瑟々在世中、寡世に資したものを移植したのだといふ。」

講演時間よりかなり早く着いた私達は近江商人ゆかりの街並みを散策して歩き、昼食後、西蓮寺へ。
前を歩く御婦人のおしゃべりから、今年ふるまわれる桜餅についての話が零れるのに、わくわくと耳を澄ましたり。
毎年地元の婦人会?の方々が展覧会開期中、桜餅を振る舞って来る人を迎えて下さるそう。
続々と細い道々から集まってくる地元の人々の様子を見て、なんだか胸が熱くなる思いがしました。
古のひとりの女性画家の眠る西蓮寺、200年の月日が過ぎた今、彼女が愛したであろう桜のこの季節になると、諸家に守られ続けた作品が飾られ、お盆のお祭りのように、お菓子がふるまわれ人々がにこやかに集まる。
美術館で行われる大規模な展覧会の様子とはあまりに程遠いですが、絵描きとして此ほど幸せな供養があるでしょうか。
靴を脱ぎ御堂に入ると、後の壁から右回りに桜の絵の軸がぎっしりと掛けられていました。
瑟々の作品の所蔵の殆んどは旧八日市周辺の地元の諸家の人々に代々伝え守られたものなのだといいます。
御堂に集まる観客も又、殆んどが地元の人達です。とても近い距離で見ることができ、地元の人々が談笑しながら瑟々ぬ桜をにこやかに楽しんでいて。

さて、地元の人々の賑わいを十分に楽しみ、深呼吸して、目はこれら作品群に移します。

入り口より先ずは三熊介堂、三熊露香、広瀬花隠の一点ずつの桜画。
それに続いて瑟々の作品が並べられています。

先にも引用中に触れましたが、瑟々が京都で門を叩いた三熊露香は呉春の門人であり、露香の兄三熊介堂は桜を描いては当代一と言われた画家。
瑟々十七歳の頃には当時の新書画展に師と名を連ねて出品もしています。
しかし、二十二歳で露香がこの世を去り、三熊派の桜画は瑟々と広瀬花隠に託されます。
瑟々ゆかりの三人の作品に続いて、瑟々の作品は若きより年代を追って順に並べられていました。
晩年にいく程に様式化が顕著に見られる葉の書き方の類似等から瑟々は介堂よりも具体的に絵を学んだのでは、と推測しながら見ました。
飛躍しますが、講演の中で、応挙、呉春、岸駒などが活躍、写生と古きに学ぶを大切にしオリジナルを制作するなどに特徴のある、瑟々の少し前の時代をルネサンスと位置付け、その後の瑟々の時代を西洋美術史になぞり、マニエラ(手法・様式)を語源とする「マニエリズム的傾向」の時代、と仮説的に称してお話されているのが大変面白かったです。
なるほど、瑟々のこの様式化された一枚ずつ丹念に描かれた葉や葉脈の細く鋭くデフォルメされた描写、特に面相筆で長く伸ばされた葉の先の先は極端な優美さの誇張が一種の異様な気持ち悪さも同時に呼んでいて。
パリジァニーノの「長い首の聖母」等に見られるねじれて伸びるような手足の誇張表現から受ける印象を連想しなくもないかも。

「むらの人々が大切にむらの桜の樹を守り伝えるかのように、絵面としてではなく、瑟々の桜を大切に守り続けていることに、絵を描くものとして大いに勇気づけられました。」
講演の最後にコメントした同行の先生のコメントです。
感動といっても大袈裟でなくて、この言葉に集約されている思いは、私は勿論、今回勉強会に参加した一行共通の思いであったと思います。

講演後、手作りの桜餅(皮に餅米が残る近江風で葉の塩加減が絶品のもの)を頂きながら、瑟々を思い、長く長くこの桜画展が続くようにと願いました。